Niwatsuki
天台宗 庭月山 月蔵院
太郎田から打ち止めの庭月までは43キロもあり、最上札所の中では最も長い距離である。
近江の国、鯰江の城主、佐々木新太郎綱村が、出羽の国に国替となり、その姓を鮭延と改め、真室城を居城とした。彼は、常日頃から観音を信仰し、近江から持参した本尊を城内に安置したのであった。ところが、家臣の庭月利左衛門広綱は、「観音は人々の苦しみを救う仏であるから、しかるべき霊地へ奉安し、広く一般の人々に礼拝させるようにしたらいかがなものか」 と進言した。それにより、鮭川の清流に沿った風光明媚の土地に本尊が移遷され、それ以来、庭月と呼ばれ、多くの信者を集めるようになったのである。
鮭延氏が他国に移封され、庭月一族もそれに従ったことから、観音堂は一時荒廃を極め、見る影もなくなってしまったのであった。そこで、戸沢侯自らの発願により信徒から寄付を募り、寛文十一年四月(1671)現在地に移転された。落慶法要は延宝四年(1676)七月三日、円満寺住職、尊純法印を願主にして、盛大な法要が執行されたという。工事費は金八十両、米六十俵、戸沢侯よりは米二十石の寄進がなされている。また、尊純法印の発願により阿弥陀堂が建立された。
その後、蓮雄法印が弘化年間に再びお堂の建立を計画し、嘉永五年八月に落慶したのが、現在のお堂である。庭月の境内に入ると、まず「おかげ様門」をくぐる。我々は数え切れない程の「恩恵」を受けて生かしていただいていることに気づきなさい、ということなのである。巡礼堂があり、本堂があって、仁王門をくぐり石段を登り切ったところに観音堂がある。それを正面にして、右側に鐘楼 阿弥陀堂、光姫塚、百観音堂や記念碑などが建立されている。ご詠歌を奉詠し、おいずりを本堂に納めて帰ることから、本堂を別名「おいずり堂」ともいうのである。おいずりのほかに、納経帳や、掛軸の古いものなども沢山おさめられている。