Fukabori
深掘観音堂
大石田から向かって川前の手前1キロ、杉木立のなかにある。
昔、都に安戸見一尾という人が、この尊像を持っていたが、その子孫が没落したため、朝夕のお勤めも思うようにならなくなった。そのため、不敬に取扱うことを心配して比叡山に奉納した。
その後、安戸見一尾の子孫である川辺市正という武士が、祖先が崇拝した仏であることを知り、須磨寺から貰いうけて守護仏とした。さらに長谷川盛易の手から大和の国橘寺に納めた。続いて、大阪夏の陣の時、九鬼一之進がこれを頂いて戦場に出た。九鬼はこの仏を松永弾正に譲ったが、松永家は徳川幕府に仕え数代の後に浪人となり、奥州白河に住んだ。その子孫が山形市外の古館に住んだが、尊像は大竜寺に安置された。先に深堀にあった観音像が何者かに盗み去られ、村人は適当な仏像を探し求めていたが、大石田の立光庵の海存坊が、大竜寺にある尊像を譲り受けた。深堀、香林山清行院、宗順法印の代で正徳六年九月十六日の事である。それから明治維新となり、神仏混淆を禁じられたため、修験宗の清行院住職法印は神官に復職して行沢糺と改名、明治十一年観音と関係断絶、観音は行沢家より村民に移り交代で管理することになつた。
ここの尊像は天井裏板の上に安置してあり、屋根換え工事の時でなければ開帳されない。現在のお堂は今から約二百年前の元文元年。