Takamatsu
真言宗 高松山 光明院
高松は国道13号線沿い、上山温泉から南へ約1キロのところにある。
行基が高松の里に小さな庵を作り、しばらくの間住んでいたとき、この像を彫刻して人々に礼拝させたのが始まりで、その後、山の上にお堂を建てて安置した。この観音の霊験が大変あらたかなことが、四十五代聖武天皇の耳に達し、御祈願所に指定されたため、以来、大名から一般の人々に至るまで、参拝者が多かった。時の領主からの信仰もあつく、寺の土地を寄付する人もあり、松平家が上山の藩主となってからは、鎮城護国の霊場として、三十石を寄付した上、例祭には使者を派遣し、祭祀料をお供えして崇敬した。
慶応元年の元旦、山火事のためお堂は火に包まれてしまったが、時の別当、光明法印が猛火の下をかいくぐって、本尊を運び出して事なきを得た。元日の祝い酒に酔って火を出した山守は、悪疫にかかり悶死した。直ぐ再建にかかったが、まだ出来上がらないうちに明治維新となり、観音堂の再建計画も駄目になった。
明治五年になって再建の話がまとまり、さきに本尊を火の中から取り出した光明法印が骨を折り、広い範囲から信者の寄付を集めることが出来た。その年の九月に完成し、盛大な落成祭典が行われた。現在の観音堂はその時のもので、御前仏像も火災の厄を免れた古い彫刻であり、ここは上山十体観音としては、第六番目の霊場となっている。