Iwanami
天台宗 新福山 石行寺
平清水から2キロ余り、岩波は西蔵王高原へ向かう途中にある。
元明天皇の和銅元年、行基が仏教を広めるため、この地方を巡っているとき、風景が観音の故郷補陀落山に似ていることから、ここにお堂を建てた。岩波という地名は、前を流れる瀧山(りゅうざん)の流れが、岩に当たって白い波を立てているというところからつけられ、石行寺という名前は、石を踏みながら河原道を行くというところからつけられた。行基はお堂を建てるにあたって、下流から発見した霊木で、十一面観音像を彫刻したが、その木を見つけたところを元木という。
その後、清和天皇のとき、慈覚大師が新しくお堂を再建したが、これは「御作の御堂」と呼ばれている。橅(ブナ)の木を用いた素朴な建物である。長い年月の間、山形城主をはじめ、多くの信者により幾度かの大修理を繰りかえしてきたが、全面的な解体を行い、もとの「阿彌陀堂造り」に復元された。(県指定文化財)
脇士の不動明王と毘沙門天は慈覚大師の作で、他に、同じく大師彫刻の地蔵尊がある。大きさは一尺余りで、耳の病の人が祈念すれば治るといわれ、参拝者も多い。ここは、行基菩薩の開山、慈覚大師の中興によるもので、時代を物語る数多くの物が残され、自然の滝を取り入れた庭園も有名。
山形の歴史に関する文献をひらくと、南北朝の頃のこの地方の様子を知る上で最適な資料が、石行寺の寺宝として保管されているのに気がつく。それは、この時代に書写された「大般若経」百十四巻である。文和二年(1353)より永和元年(1375)までの二十三年間にわたるもので、このうち南朝の年号が十九巻、北朝の年号が九十四巻となっている。