Karamatsu
曹洞宗 唐松山 護国寺
山形と仙台を結ぶ国道286号線沿い、馬見ケ崎川の右岸にある。境内は東西が三十七間、南北が二十間である。
一条天皇の正歴元年(990)、平清水の郷民森山氏の妻が戦死した夫の冥福を祈るため、唐松山の霊窟に観音像を祀り河岸に草庵を結んだ、これを「江滸尼公庵」と言った。これが寺のはじまりとされている。
馬見ケ崎川の上流に住む藤原藤太(炭焼藤太とも称)に、京都一条殿の豊丸姫という美女が清水観音のお告げによってはるばる訪れ、奥州宝沢の里に辿りつき藤太の妻となった。その豊丸姫の念持仏の弘法大師作一寸八分金無垢の聖観音像を、藤太が永久元年(1113)唐松山の霊窟に祀って、その前に堂宇を建て拝殿とし、衆人と共に崇敬していた。これが唐松の始まりであると伝えられている。
その後、人々の信仰を集めるようになってにわかに松宗庵と護国寺の二人が別当と名乗り出て、役所に訴訟を起こした。しかし、二人共その根拠がなかったのでその職を解かれ、改めて裏山の山守頭を務めていた石井奥太夫宗吉を別当職に任じたのである。
寛文元年(1661)三月、時の山形城主松平下総守忠弘(清長)は深く唐松に帰依し、居城鬼門の守護仏として鎮城護国の道場に定めて観音堂創建を計り、郡奉行市川七郎右衛門、日向六郎兵衛、竹下三郎太夫に命じて建設に当たった。三人は京都清水の観音の舞台を模して、総檜材懸崖造りの荘厳な大悲閣を建立したのである。
その後、堀田家の再建(1706年)、水野家の大修理(1856年)等、代々の城主が修復に心を配って来たが、昭和の代となり御堂は荒廃甚だしくなったため再建の話が持ち上がり、信者からの浄財をもって、昭和五十一年五月に新観音堂の落成を見たのである。