Ennoji
真言宗 大慈山 圓應寺
山形市の中心より少し北側の宮町にある圓應寺は、室町時代の延文元年(1356)、山形城主・斯波兼頼公が城の北東方に位置した現在地に城の守護仏として観音を奉安したことに始まる。この本尊は、兼頼公が自信の兜の前立てとしてつけていた弘法大師作と伝えられる観音像である。
山形城主は代々この観音を崇拝してきたため、毎年沢山の寄進があり、立派なお堂や塔が立ち並んだ。しかし、最上義俊の時になって火災にあい、建物も宝物もすっかり焼けてしまったが、尊像だけは幸いに消失を免れた。又、最上家改易とともに広大な寺領は狭小化し、境内は荒廃した状態が続いた。
時が流れ、江戸・貞享三年に真言宗の存了律師が再興を計画して観音堂を改修。更に元禄年間には光有律師が三間四面の観音堂を再建するとともに、寺院の他、宝篋印塔、千体地蔵堂、弁財天堂、鐘楼堂等を整備した。その後、享保五年に当時の住職であった比丘光嚴和尚を中心に、釘一本使用しない木彫の一丈二尺に及ぶ大観音坐像を創作、これを機に本尊はその胎内に秘仏として奉安されるようになった。以後、三十三年毎に本尊直接参拝が出来る御開帳記念行事が行われて来た。
法灯は再び輝きを取り戻したものの、寺領の田畑の多くを失っていたため、その維持は困難だったが、大正初期に第十三代住職の武田神静師が復興に尽力。今日の礎をつくった。以後、現住の祖父・宥芳和尚が引き継ぎ、勝芳和尚が新観音堂を建立、現住・啓芳和尚の代になり境内整備と共に新本堂が建設された。「家内安全」「招福除災」の他、特に圓應寺観音は胎内秘仏本尊という特性から「良縁成就」「子宝安産」等の参拝者の願いを叶え、永く人々の信仰を集めてきた。
平成十八年の御開帳は、大法要を始め稚児行列が祭りに華を添え、多くの参拝者で賑わった。次回は2039年に行なわれる。祭礼は毎年四月十八日、大晦日には除夜の祭が行われている。又、山形市内三十三観音の打ち止め札所でもある。