Yamadera
天台宗 宝珠山 千手院
芭蕉の句「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 で知られる山寺。
その山寺、根本中堂から東方約1キ口の地に観音堂がある。
縁起によれば、天長七年慈覚大師円仁が東北を巡って山寺まで来た時、その余りにも荘厳で雄大な景観に心を惹かれ、この地に天台宗東北の霊場づくりを決意した。
仮宿として主従五之名が定めた垂水岩に、山寺誕生の意味で円仁の生誕に関わる観音像を彫って垂水岩に安澄したのである。垂水岩とは第二番札所山寺千手院の裏山の山腰にあり、慈覚大師はその垂水岩の東隅に大日如来、その峯の西の裏に本院域を創り、薬師如来阿弥陀如来を、現奥の院に本地如来を謹請し、山寺立石寺の草創期をなした。その後、安彗弟子僧は現宝珠山を整備し、七堂伽藍を運営。嘉祥二年、慈覚大師は再度山寺を訪れて山寺立石寺を整備したのである。
大師は庶民の幸福を考え、数多くの事業を進めた。これを聞いた清和天皇は大いに喜ばれ、方三百八十町の領地と立石寺倉印を賜った。これが宝珠山立石寺である。
この寺は古来、出羽の山寺として国中にその名を知られ、景勝は東北の耶馬渓とされ、特に明治四十一年九月、大正天皇東宮にましませし御時、行啓の光栄に浴した。それより、一層の光輝を加え、参拝登山者はひきを切らず、大師草創より法燈の輝くこと千百三十余年、県内きっての霊刹として有名である。
「岩に厳を重て山とし、松柏年舊、土石老いて苔滑に、岩上の院々扉を閉て物の音きこえず。岸をめぐり岩を這て仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」と、芭蕉は奥の細道に記している。