Nyumura
天台宗 鷹尾山 般若院
大石田から尾花沢に戻り、山刀伐峠の方向へ向かうと、尾花沢市丹生部落に入る。
昔、一人の老僧が旅をしている途中、この地まで来て病気で亡くなった。老僧が目をおとす直前、「私は江戸浅草観音堂から、観世音の木像を頂いて、諸国を遍歴してきた。ここで命数つきて永眠するのも、何かの因縁でしょう。思うに観音がここに止まりたいお心からと思うから、どうかこの尊像を祀って信仰を続けてください」といい残した。村の人々は、老僧の亡くなった場所にお堂を建て、尊像を安置した。これが丹生村観音の始まりと伝えられている。
享保十八年、宥順権大僧都の時、火災にあいお堂は焼けたが、尊像は宥順師が取り出して無事であった。越えて天明二年、当時の別当、光善法印が夢のお告げにより、丹生山の中腹に移した。もとお堂のあった所は観音屋敷と呼ばれ、今もその地名が残っている。
天保二年三月、関山法印の時に再び火災にあったが、この時も本尊だけは助かっている。それから十数年の間は仮のお堂に安置されていたのだが、天保十四年、宥盛法印の時、人々の願いもありお堂が再建され現在に至っている。
明治維新で、神と仏をいっしょに祀ることが禁じられたので、観音は月山神社として、神式で祭事を行ってきた。その後、しばらくして観音堂にもどされ、人々の信仰を集めている。